新大久保商店街と地域外国人支援

  4月の商店街研究会は、新宿区新大久保の中心地域を視察した後、大久保地域センターにて、城西支部 河ア展生会員の報告に基づき、新大久保商店街振興組合の大橋宗之祐理事長に要所要所で補足して頂く形で行われた。  新大久保地域は、韓流文化の発信基地として知らぬ者がいないほどの極めて高い知名度を誇る。新大久保駅の改札を出て、まず驚くのが周辺の混雑ぶり。聞きしに勝る人の数で、歩道から溢れんばかりの人また人である。定例会当日は土曜日とあってか、中高生と見受けられる女性が非常に多く、体感では7割ほどを占めていた。

 現地視察は、新大久保商店街の位置する大久保通りを東に向かって歩いて行き、途中、イケメン通りという韓流エリアの中心地化した横丁を視察した後、再び大久保通りを東に向かって明治通りに至るまで行った。街を歩く人の数は、新大久保駅からイケメン通りまでがとても多く、イケメン通りを境として東側は相対的に少ない。2011年に行われた通行量調査では、新大久保駅そばの人流と、明治通りそばの人流は、6対1の割合だったとのことだが、現在もその状況に大きな変化はない様である。街並みを構成している店舗群は、看板その他の案内にハングルと日本語が併記されているものが殆どであった。このことから、同胞人向けに特化したというよりは、日本人来街者を主要顧客として捉えていることが感じ取れた。

 新大久保が現在のような特徴ある街になったのは、戦後の復興期まで遡るという。ロッテが1950年頃に創業して本社と工場を置き、その後、朝鮮戦争で多くの者が日本に来てこの地に住んだこと等から次第に韓国人街としての基盤が形成され始め、高度経済成長期からバブル期にかけて、その勢いは加速し、韓国人コミュニティが徐々に確立していったという。 最初は同胞人向けの小さな商売を始める者が現れ、民族意識の高まりと共に韓国語学校や教会などが増えていき、政府による留学生受け入れの積極化や円高などもあって、韓国からのみならず、アジア各国から多くの外国人が住む街になっていった。 2000年代に入ると、日韓ワールドカップや冬ソナブームの影響により、日本人の一部の層が韓流に興味を持つようになり、それに呼応する様に日本人向けの韓流店舗が増え始めた。その後も、マスコミがK-POPや韓国美容などを頻繁に取り上げ続けたことから、飲食店、食材店のみならず、韓国芸能人のグッズ販売店や韓国化粧品店など多様な業種への拡がり、現在に至っている。

 まさに韓流エリアの中心地に位置する新大久保商店街振興組合は、大正末期につくられた商工会にルーツを持つ歴史ある組織。1988年に商店街振興組合となってからの取組みは多岐にわたり、無電柱化工事(1988年実施)や街路灯のLED化(2013年実施)など、多くの商店街が令和の現在に取り組もうとしているような課題に、早くから取り組み実現に漕ぎ着けている。背景には、新宿区の手厚いサポート体制がある模様。新大久保が韓流エリアの中心地化していく中で、韓国人経営者を受け入れるに至り、現在では理事32名のうち、韓国人理事が6人を占めている

  定例会のテーマである「地域外国人支援」として、生活面やビジネス面で困りごとを抱えている地域外国人に支援の手を伸ばすような活動を進めてはいるが、同胞同士のコミュニティを優先する意識の強さや、会費を支払うという行為についての理解が得られづらいとのことで、同エリア約400店舗の内、3分の1程度の店舗しか振興組合に加入していないとのことである。

  新大久保商店街振興組合は、外国人経営者を受け入れる側の責任として、地域のルールを知らないまま、外国人が我流でビジネスを進めていくことによる有形無形のトラブルを未然に防ぐための活動にも試行錯誤しながら根気よく取り組んでいる様に見受けられた。手放しで放置していれば混沌必至な状況の中で、衛生面や防災面、治安面などで一定水準の秩序を維持していくための活動は、地域全体の安全安心を生み、さらなる来街者を呼ぶことにつながっている。彼らの活動が、多くの外国人経営者達に理解され、一体となって街の魅力を底上げしていくことへ協力が得られることを期待して止まない

新大久保商店街  新大久保商店街

城西支部 本間義隆